悪い奴もしょーもない奴もガキも不感症者も世の中にはいるわけで、自分が聖域だと思っている場所にそいつらが入り込んで来ないかは完全に運次第なわけで。
歴史が長くなれば、何かしらは起こって当然。起きたときにどう対応するかが、動物ではない、人間としての生きる力。
一般的な傾向として、音ゲーマーはその辺、弱い。音ゲーにハマる人間の特性といえば「個人主義、完璧主義」だから、弱いこと自体はしかたがない。
人間も所詮動物だから、感情で動くのが大前提だ。大概の事態において、理屈というのは感情を正当化するために後からついてくるものだ。
ただし人間は、果たすべき目的のために、感情に背いた行動をとることもできる。それが人間の力。「もう限界だ、休みたい」という感情を克服して、一心に修練に励む姿を美しいと感じるのも、それが人間としての営みだからに他ならない。
なお目的のために感情に背いた行動を取り過ぎるとうつ病になる。完璧主義者がうつ病になりやすいのはそのせいだ。ほどほどのところでバランスをとるのもまた、人間としての生きる力だ。
話は少し変わって、いわゆる日本的な一般社会の中では、「理不尽さを耐える」ことが「大人」とされているけど、俺はそうするのがいいとも思わない。
それが「大人」とみなされて、子にまでそれを価値観として伝えていくのなんて、日本じゃなければ奴隷社会ぐらいじゃないか?
理不尽さに対しては、対応することが必要だ。耐えるしかない状況なら、耐えるしかない。でも、耐えるだけしか引き出しが無い人間のことを、俺はいい大人とは思わない。
災害が起きれば、皆で救助し合って、対策をとる。罪には鉄槌を下す。侵略を受けたなら、何とかする方法を知恵を絞って考える。
そうやって、笑って生きていける方法を探すのがいい大人ってもんだ。東の海編のワンピースが大ウケしたのって、たぶんそれが理由でしょ?
もう一つ大事なことは、咎人を嘲笑って締め出したところで、彼らの人生もまた、そこで終わるわけではないということだ。
何らかの方法でメシを食ってる以上、彼らは彼らで誰かの役に立って、人間として生きている。
メシを食うために真っ黒な不正を働く人間のことを犯罪者と呼ぶわけで、単に不快なだけの人間と司法によって制裁を受けるべき人間を線引きする一つのラインがそれだ。
皆で仲良くする必要もない。不正に泣き寝入りする必要もないし、根絶やしにする必要もない。そもそも不正のラインだって人によって違うからこそ事件が起きる。
必要はないけれど、俺たちはどんな選択肢だって自分でとることができる。腕前を上げるために試行錯誤できるなら、幸せに生きるための試行錯誤だってできるはずだ。
個人主義で完璧主義な人間がたくさん集まって、社会ができて、事件が起きて、それを契機に成長できるなら、元から社会性に優れた人間だけが集まる社会(そもそもそんなものは無い)よりも、深いポテンシャルを持つ土壌だと言えないだろうか?
と言ったら理想主義過ぎるけど。人間が何をしたところで、お月様は沈むし日は上るのである。迷惑をかけながら生きるのも、目くじらを立てて生きるのも、笑って生きるのも、人間に許された自由だから、好きに選んで生きればいい。
お昼ご飯何にしようかな。
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