闘病生活② ~トランプとの交信~
”調子に乗りおったな。せっかくさっきは、私の力でお前の超能力を抑えてやったというのに”
女性へ念を送るのに精を出していた私の脳に届いた、トランプからのメッセージ。
今思えばトランプが日本語を話している時点でおかしいのですが、そんな細かいことには気づきません。
”お前が調子に乗って超能力を使いまくるから、中国にお前の居場所がバレてしまった”
”その病院はもうダメだ。10分後に軍が到着し、殲滅が始まる。早くそこから逃げろ”
それを受信した私。ちょうど睡眠薬を受け取って戻ってきた母と弟をとにかく急かし、駐車場へと急ぎます。
車に乗り込み、どこへ逃げるか思案する。自分の下宿も実家もダメだ、きっと中国には場所がバレている。
思考を回転させながらガソリンメーターを見ると、ほとんど空。まずは逃走準備のために、ガソリンスタンドへ向かいました。
車から降りて、ガソリンを入れる私に、母と弟も車から降りてきてこう話しかけます。
「お兄ちゃん、そんなに慌ててどうしたの?言ってることもよくわからないし、やっぱり病院に行ってちゃんと診てもらったほうがいいんじゃない?」
私は、『とにかく急がないといけない』ことだけを繰り返し、ガソリンを入れ終わって、早く車に乗るように二人を急かします。
二人は、すぐに車には乗りません。
「お兄ちゃん。病院に戻ろう?」
”ダメだ。その二人は、中国に操られてしまった。お前を足止めしようとしている”
”気の毒だが、見捨てるしかない”
トランプの助言に従い、「ごめん!!」と一言言い残し、私は愛する家族と今生の別れとなる覚悟を決めて、車に乗り込み、全速力で道路へ飛び出しました。
スピードを上げながら、私は福岡を目指すことに決めました。
福岡には、栗坊さんがいる。この異常な状況、敵の元には絶対に飛び込むわけに行かない緊迫した心理状態で、私にとって絶対に信頼できる相手が栗坊さんだったのです。
そして高速道路に乗る前に、コンビニで食料を調達しようとしていた時。
おそらく、そのタイミングでまた、ドパミンの過剰分泌が弱くなったのでしょう。
自分はまた、妄想にとりつかれている。そのことを自覚した私は、母親に電話をかけ、病院へと戻ることにしたのでした。
闘病生活③ ~精神病院~
職場の病院に戻り、上司と話をした私は、そのまま救急車で、岡山県精神科医療センターに連れて行かれました。
時刻は夜中の11時。救急外来で精神保健指定医の診察を受け、何があったのかを詳細に語っていきます。
「こんなにもご自分に起こったことを詳細に自覚されている患者さんは、初めて診ました」
そんな評価とともに、私は即日入院が決まりました。
入院した当日は、観察室という、ナースステーションからすぐ見える所の部屋に入れられました。
ベッドも布団もないマットが敷いてあるだけの狭い部屋で、夜中でも明かりや看護師さんの声が届いてくることもあり、快適な環境とは言えません。
翌日には、準観察室へ移りました。
こちらは普通にベッドと机が置いてある部屋で、環境は随分ましになりましたが、要観察対象ということで1日じゅう外から鍵をかけられ、外に出られるのは1時間程度というのがかなりきつかったです。
試しにスマホも本も何もない状態で、1日中鍵をかけて部屋に閉じこもってみてください。たぶん2時間ぐらいでネを上げたくなると思います。
1週間ほど経ってその境遇からも脱し、一般病棟に移って他の患者さん達と接することができるようになりました。
精神病院に入院している人というのは本当に色々な背景の人たちで、病勢もまちまち。何故入院しているのかわからないような、理知的に話ができる人もいれば、四六時中虚空に向かって何かを呟いている人もいます。
抗精神病薬を処方された私の経過は順調で、妄想はすぐにおさまって再発することもなく、3週間ほど経つ頃には退院へ向けた準備としての外出許可が下りるようになりました。
母親と弟に迎えに来てもらって、半日間の外出に出かけた私。喜び勇んで向かった先はゲーセンでした。母親も私がギタフリ大好きなことは知っていましたから、特に反対はせず連れて行ってくれました。
ギタドラにクレジットを入れる。スケジュールを切り詰めて大宴奏会2017に参加して以来、1ヵ月以上ぶりのプレー。
ノーツに対して、脳が全く追いつきません。期間が空いていたこと以上に、脳自体にまだまだ病気のダメージが残っているんだなと思い知らされた10分間。
結局2クレだけプレーしたところで気分が悪くなってきて、ゲーセンを後にすることにしました。
異変が起きたのは、その時の車の中です。『狭い空間に閉じ込められていること』に対し、えも言われぬ不安と焦燥感に駆られ、1分も乗り続けていることができなくなったのです。
この時私の脳内で何が起こっていたのか、今になってもわかりません。ギタドラをプレーしたこととの関係性も、妄想症状と閉所恐怖症の関係も、医学的な関連性について結論を出せないままでいます。
結局この日は車を母親に頼み、弟と二人で病院まで歩いて帰りました。
そしてその日から、狭い空間で恐怖を感じる症状と、落ち着いた状態でじっと止まっていることができない症状に悩まされることになりました。
エレベーターに乗った瞬間、周囲から押し潰されるような重圧を感じ、息が上がります。
また、座ったり寝転がったりして落ち着くことができず、謎の焦燥感に襲われます。唯一の解消法は歩いていることで、1周100メートルほどの回廊になっている病棟内を朝から晩まで歩き続けて過ごしました。
夜もなかなか眠ることができず、頓服薬を求めてナースステーションに助けを求める日々。
症状の悪化のため、私は保護室に入ることになりました。
保護室とは、主に自傷・他害のおそれがある患者さんを守るための部屋のことですが、この環境がなかなか強烈。
4畳ほどの部屋の中には、自殺を防ぐため凹凸のあるものが一切置かれていません。寝起きは全てマットレスの上で行い、平たいトイレが部屋の片隅に設置されているだけ。
外からは完全に鍵が掛けられ、唯一外と繋がっている小窓から食事が差し出されます。
狭いところがダメな状態で、狭い部屋に一日中閉じ込められる矛盾。
はっきり言って独房より酷いこの空間で、私は30歳の誕生日を迎えることになりました。
闘病生活④ ~1度目の退院と、W杯~
保護室に入った当初の私の状態は、それはもう酷いものでした。
『もう俺の人生は終わった』。そう思い込み、壁に向かって何度も全力で頭を打ちつけ、首の筋を違えて悶絶しました。
シャツを脱いで首に巻き付けて締め上げ、嘔吐したせいでそれがスタッフにバレ、一日手足を拘束された状態で過ごした日もありました。
しかし、1ヵ月ほど経つ頃には、最も悪い状態からは脱し、何とか一般病棟に戻ることができました。
その頃も動いていないと落ち着かない症状と、不安の症状はまだ残っていたのですが、病院側とて永久に保護室に閉じ込めておくわけにはいかないという事情もあります。
そのまま退院調整に入り、2018年2月末、大きな不安を抱えたまま、1度目の退院を迎えました。
退院してから2ヵ月ほどは、実家で過ごしました。閉所恐怖症は健在ではありましたが、少しはマシになっており、車の中でも10分ほどは過ごすことができたため、休み休み移動することは可能になっていました。
しかし、10分ごとに車から降りなければいけないような状態で、まともな社会生活が送れるでしょうか。
今後この症状が治らなければ、まともな就職もできないし、旅行などの楽しみも全くない。想像されるのは、灰色の人生。
絶望感に心身を支配され、夜な夜な街を徘徊し、目についたマンションの最上階に上っては、手すりを超えて身を乗り出すような日々が続きました。
本当に、飛び降り自殺をする一歩手前でした。実行する度胸がなくて良かった。
5月に入る頃にはそんな症状も和らぎ、落ち着いた状態で車に乗ることが可能になりました。
妄想症状は元々良くなっていたため、職場復帰に向けて下宿生活を再開したわけですが。
すぐに復帰して、バリバリ働く気にはなれませんでした。上司に顔だけ見せておいて、まだ完全に良くなっていないので、もう少し休ませてくださいと伝え、下宿でテレビとパソコンを見て過ごす日々。
この時はまだ屍のようで、本当に人生に復帰するのか、それともこのまま朽ちていくのか、半々のような心理状況でした。
ちょうど2018年は、ロシアW杯が開催された年。元々スポーツは好きなので、開幕を楽しみに待っていました。
ハリルホジッチの電撃解任でゴタゴタしていた日本代表に期待はしていませんでしたが、大方の予想を裏切り、西野JAPANはコロンビア相手に望外の勝利。セネガル戦も引き分け、決勝トーナメント進出を賭けてポーランド戦に臨みます。
そして西野監督がとった戦術は、先発6人を交代して休ませるターンオーバーと、試合終盤の、リードされた状態でのパス回し。
大きな賛否両論を巻き起こし、特に否の方の意見が多かった印象のあるこの試合ですが、私はこの時日本代表がとった戦略を評価しています。
ターンオーバーもパス回しも、全ては目の前のリスクをギリギリまでとりにいきながら、『その先』のステージを目指すためのクレバーな選択だったと思います。
失敗すれば何もかも失う上に、それこそ罵声の嵐を浴びることは必至。大博打に出ながらギリギリでそれを実らせた日本代表の姿に、私は興奮を覚えました。
そして、伝説と言っていいだろう決勝トーナメント1回戦、日本vsベルギー戦。
当時ベルギーの世界ランキングは3位。デブルイネ、アザール、ルカクのホットラインを有する出場国中屈指の攻撃陣を擁し、キーパーのクルトワもワールドクラス。脇も世界中のトップクラブで活躍するスーパースター達で固められ、優勝候補の一角に数え上げられていました。
対する日本は、世界トップクラスと言える実力を持つのは香川真司と、せいぜい長谷部、長友、大迫ぐらい。他にも乾、柴崎、吉田、酒井宏樹など、欧州のクラブで活躍する粒ぞろいのメンバーではありましたが、ベルギーにはとても対抗できると思えない。
ニュースではベルギーサポーターの、『試合になるといいね』という余裕の表情ばかりが流れてきます。そして、それに対して真っ向から反論する日本サポーターもいなかったことでしょう。
それが蓋を開けてみれば、ピッチ上で躍動してみせた侍ジャパン。
ベルギーの猛攻を何とか凌ぎきり、0-0で折り返してみせた緊迫の前半戦。
そしてまさかまさかの後半戦、柴崎と香川の針の穴を通すようなチャンスメイクからの、原口の先取点と、乾の鮮やかな追加点。
俺がCrazy bloomsを繋いでたまごさんを倒した時や、エレクリでぴこ君を倒した時も、観客はこんな気分だったのかな。
などとは、その時は思っていませんwただただ画面に釘付けになり、得点の美酒に酔いしれました。
そして幕切れもまた、劇的なものでした。
アンラッキーな1点目と、フェライニの完璧なヘディングによる2点目を経て、2-2の同点で迎えた試合終了間際。
本田の強烈なフリーキックがクルトワにセーブされ、延長戦かと思われたその瞬間。
日本のコーナーキックを直接キャッチしたクルトワがデブルイネにボールをスローすると、まるで今試合が始まったかのような勢いで攻め上がるベルギー攻撃陣。
デブルイネが長いドリブルから右サイドのムニエにボールを展開し、折り返しのパスをゴール前のルカクが芸術的にスルー。
死角から飛び出してきたシャドリが3点目となるゴールをネットに突き刺し、日本の夢は打ち砕かれたのでした。
この時のベルギーのカウンターは『2018年のサッカー名場面』にも選ばれており、それまでの日本の健闘も含め、世界中のサッカーファンに衝撃を与えました。
そして、朽ちかけた私の心にも、この時の西野ジャパンの活躍が火をつけました。
日本がいつか、決勝トーナメント1回戦を突破する、その姿を見る日までは、俺は死ねない。
そんな思いを胸に、職場へと復帰する決心を固めた私。
この後さらなる転落が待ち受けているとは、想像もしていませんでした。
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